泣いて笑って2 万人の子ども達と共に

2015/06/28

私は、10 代の時までは日本一の幼稚園の先生になると決めていました。
しかし、教育実習中に私の運命は大きく変わったのです。
実習の成果を園長先生と担任の先生に見て頂く授業発表の日、そのことは起きました。
授業内容は徹夜して作ったもので、それなりに自信はありました。
当日は、授業の準備も万全で子ども達との関係も良好でした。
授業カリキュラムは、幼児教育5 領域を押さえた中々の出来だったと今でも思います。
『あの~、もう終わったんですが―』授業が終わった後も先生方がお立ちになられないため、声をお掛けしました。
園長先生が目を丸くされて「いやー!素晴らしすぎて腰がたたなくなったのよー!」と言われました。
19 歳の私は、正直にその言葉をそのまま受け取り、上機嫌で家に帰りました。
さて、そこからが問題です。
『まてよ、19 歳で園長先生がお立ちになれないほどの授業が出来たという事は、この先目指すものがないということじゃないの?!』この様に捉えてしまったのです。
今思えば、若者は馬鹿者でした。
園長先生は当時50 代で今の私と同じ世代でした。
授業中床に座られて私の授業をご覧になられていましたので、今考えればすぐにお立ちになれない程に、腰が痛かったのではないかとも思うのです。
しかし、そこは若者!
そのまま素直にそのお言葉を受け取り『幼児教育制覇!』と、大いなる勘違いをしたまま大学を卒業しました。
そこから、私の人生の大転換期を迎えていったのです。
公立幼稚園教諭になるための市役所での試験日、私は両親には試験に行くといい家を出ましたが行きませんでした。
両親からは、後にさんざん叱られました。
その時に私が両親に言った言葉を今でも覚えています。
『今は、何になるかはまだ分かりませんが、必ずこの職業にして良かったと思えるものを見つけ親孝行をします!』と言いました。
あれから34 年。
私は,株式会社パスパルと株式会社エンジェルコスモの社長になりました。
両親には、40 歳になるまでハラハラさせ通しでした。
でも、私が50 歳になった頃初めて「洋子は、本当によくやりきったね。」と褒めてくれました。
園長先生の褒めてくださったお言葉と両親の28 年ぶりの褒め言葉の、どちらも私の人生にエネルギーを与えてくださいました。
今私は、言葉の出てこない日本中のお子さん方のお母様方に言葉が出てくる方法を指導させていただいています。
今このような立場にさせて頂いたのは、全て最初に「誉め言葉」があったからなのです。
言葉一つで人は大いに喜んだり、生きる力にしたりすることが出来ます。
美しく優しい言葉を紡いでいきたいものです。

七夕